定年雑感

筆者:下村政裕

新たなステップへ~歩んできた道の振り返り~
名実ともに第1の社会人(水道)人生のリタイアを迎えて半年が経とうとしています。
再任用ではありませんでしたが、親元の定年退職後も、退職当時の仕事を継続させてもらい、それを卒業して初めて、定年の侘しさのようなものを、今、覚えています。
さいたま市水道局(旧埼玉県南水道企業団)を定年退職したのが、2014年3月。その時の仕事であった、JICA(国際協力機構)のラオス国水道技術協力プロジェクト(Project MaWaSU)の長期専門家の仕事を、引き続きやらせていただき、昨年、2017年8月にMaWaSUの幕引きとともに日本に本帰国して、実質のリタイア生活に入りました。埼玉県南水道企業団(現さいたま市水道局)に奉職したのが1976年4月。以来、41年と5か月余り、水道事業一筋の井の中の蛙で、実質の社会人人生を終えたということになります。自らその長さに驚かされ、そのことを信じられない自分が今います。
早く偉くなって自分の思うような仕事をしたい、あるいは国際畑で働きたいとの気持ちが常にありながら、親元では中々、自分が真に望む職場には付けず、イライラとしながら、意固地にもなっていた時代も相当にあった水道人生活…
そのような中でも、この40年を振り返ると、これからを考える上で重要なイシュウとなるであろう、人生の転機ともなったさまざまなエポックメーキングがいくつかあります。

就職難の時代に拾われる~水道屋としての芽生え~
埼玉県南水道企業団で最初に配属された漏水調査課。大卒直後で、拾ってもらったくせに、なんで自分が維持管理の仕事?との気持ちが強かったことを思い出します。しかしながら、この時の漏水管理あるいは管路の維持管理との出会いとそこでの思いや積んだ経験は今日まで一貫して、仕事をする、あるいは考える際の基盤となり、無収水管理は、ライフワークの一つと位置付けるまでになりました。
そして、20台の後半には、水処理との出会いも。当時の国立公衆衛生院での半年にわたる研修に参加する機会を与えていただきました。土木屋として水道事業に携わっていた自分ですが、基礎中の基礎ではありながらも、金子先生、眞柄先生、国包先生、相沢先生といった私にとっては殿上人であられる先生方から、水処理の技術論だけでなく水道のポリシーやロマンに関わるようなことまでを直接に学ばせていただきました。「下水道の普及が進めば水道の原水である河川の汚染は進む」。眞柄先生の当時のこのお言葉は驚きをもって聞いた言葉であり、水道の神髄を心に打ち付けた事件であり、今も先生のお声が強く心に残っています。

生意気盛り~何でも一人でできるとの錯覚期~
30代の半ば過ぎにまったく予想すらもしていなかった営業所への異動。組合の支部長を仰せつかりながら、長いものに巻かれたくないとの気持ちから組合を脱退した直後の異動辞令。身から出た錆ですがかなり落ち込みました。それでも、ふざけるなと意地となって、給水工事検査業務を中心に、給水装置に関する技術を現場経験と共に一心不乱に学ばせていただきました。更に営業所勤務であることから、水道事業の最前線の現場の仕事、お客様と直接に深く接しながら信頼を得る、あるいは信頼を何とか回復していただく仕事も経験することができました。技術論だけではどうにもならない真の水道事業の最前線の仕事であり、ものすごく辛い仕事でもありましたが、ここでの経験があったからこそ、今の自分があることは間違いがないことです。

水道の仕事が好きになる~熱血期のピークを迎える~
そしてその最前線に泥まみれになりながら、どっぷりつとかった2年間から、大先輩が拾い上げてくれてあこがれの計画課へ。その先輩から、「課のルーチンワークはやらなくて良い。今後、県南水道がどういう方向に進むべきなのか、水道事業展開の方向性をじっくりと考えてみろ」と言われたこと。このいただいた水道人生のある意味大きな充電時間ともいえる時間を活用してやらせてもらったこと。結果的に当時の部長から「夢が稔った、ありがとう」との言葉をいただく。県南水道始まって以来の長期構想の策定。このことは自分に大きな自信をもたらしたとともに、定年を迎えてみれば(もう一つ、さらに大きなピークを常に欲しがっていましたが…)、激しく燃えるという意味で、水道事業人生での大きなピークを迎えた仕事であったと振り返ります。

新たな学びの時代~外から水道を見つめる、親元からのテイクオフ~
30代後半。20代後半からの夢であったJICAの専門家。英会話学校にも通い出して10年。1992年にラオスとの出会い。92年と93年にはJICAの無償資金協力の調査団に参団し、94年には6か月の個別専門家として赴任。直前の計画課での仕事が大いに役立つラオス国水道事業開発計画策定支援に従事しました。そして、夢は、いずれ長期専門家として国際協力に関わりたい、とますます膨らみ、ライフワークの二つ目が決まって帰国しました。
その翌年には、阪神・淡路大震災。現地に赴き応急給水支援を経験。誰もが初めてのことでとても緊張する中、そして気持ち、心構えの温度差から仲間同士でぶつかり合うこともしばしば。しかしそれらの良いこと悪いこと双方の貴重な初めての経験が、親元での私の最後の仕事、東日本大震災での応急給水、災害復旧支援活動へと大きく繋がりました。
90年代の後半には、これも夢の一つであった水道技術研究センター(JWRC)への出向。震災対策関連の調査研究に携わるとともに、眞柄先生が委員長を務められていた調査研究にも携わり、中小規模、特に簡易水道との出会いがありました。3年の出向期間を終えて親元に帰ってからも全国簡易水道協議会にお願いをして、中小規模水道問題の勉強会を継続、3つ目のライフワークと位置付ける活動になりました。更にJWRC時代には、ベトナムそしてサンパウロとの出会いも。日本の水道セクターを代表する水道技術研究センターの主任研究員としての立場で、語学的にも水道全般に対する知識・技術的にも相応しくないと国際活動にはしり込みもしました。しかし当時の藤原理事長から、迷ったらチャレンジングな道を選べと厳しく指導され飛び込むことに。この貴重な経験も今の私がある理由の一つであり、ますます、長期専門家になることの夢が膨らみました。

個人プレーからチームプレーへ~非ルーチン系の仕事を仲間と~
JWRCからの帰任時は、親元の埼玉県南水道企業団が市町村合併により解散してさいたま市水道部となっていました。その帰任後の40代後半から、50代の前半は、配水管建設工事の設計・監督や漏水修繕業務を担当。この時期にそれまで設計担当と工事監督担当が別々に見ていた業務を統合し、一人の担当が設計から工事監督まで責任を持つようにする業務改善。私道に輻輳していた給水管を配水小管へ統合整理する事業の形成。更に、今、巷でも話題になっているマンホールの鉄蓋デザインの変更。加えてJWRCでの多くの方との出会いをもとに、40年来のさいたま市水道局内の友人である有吉氏のリーダーシップのもと局内に委員会を設け、小泉先生や長岡先生から直接の指導を受けながら、東芝、栗本鐵工所、フジ地中情報の皆さんと協調して、配水管網内の夾雑物に関する研究(CUPIDS)や有収率向上に向けた研究(ROUTE 21)にも携わらせていただきました。このようないわゆる特命的な仕事を推進しそれなりに成果を出せたことは、やはり、それまでの経験、特にJWRCでの実績があったからこそだと自らを評価しています。

最後の10年~国際に最後の活路を開く~
50代に入って、心は他に有りながらも、施設整備・維持管理の現場でのルーチンワークに加えて上述等の特命事項にも身をどっぷりと浸しながら、「長期専門家になる夢は、現役では無理だ、退職後にシニア専門家として叶えるしかない」と思い始めた50代半ば。ブラジル、サンパウロで立ち上がった、無収水管理プロジェクトに長期専門家として赴任するというチャンスを突然にいただきました。ライフワークと位置付けた無収水管理に関して、それまでに埼玉県南水道企業団内外の先輩からご指導をいただいたことと、そして自ら積極的に経験をしたこと双方から得られたこの分野での技術とノウハウを忌憚なく発揮させることができたとともに、国際協力手法ということに関しても含めて、新たに多くのことを学び、たくさんの気付きもあり、技術・ノウハウを大きくアップデイトさせ、プロジェクトとしてもそれなりの評価をいただいて、3年間の赴任期間を無事に終えることができました。
50代半ば過ぎに、防災担当としてさいたま市水道局に帰任。さいたま市でも直面していたベテラン職員の大量退職にともなう技術伝承の課題を、局内で立ち上げた委員会に参加させてもらって検討、さいたま市水道局独自の人材育成構想というアウトプットに貢献することができました。
そして、ブラジルから帰国した翌年の2011年3月11日、またしてもあの東日本大震災。防災担当として微力ながらも、精一杯、被災地の支援そしてさいたま市水道局でも被害を受けた施設の復旧、計画停電や放射能汚染対応に携わりました。この時は、営業所勤務や阪神淡路大震災後の経験が役立ったことはもちろん、ここでもまた、新たなこれからの水道の取り組むべき方向性に対する多くの教訓を得たことは言うまでもありません。

事業体人生の幕引き~自分なりの集大成活動ができた~
そして、震災後半年も過ぎて、少し落ち着いてきたころから、さいたま市水道局での最後の仕事として何をすべきか、ワンランクアップして、さいたま市民のために、さいたま水道のこれからの道筋をつける仕事がしたかったというのが本音でしたが、それは当然のことながら、長く現業から遠ざかることが多かった私では叶うはずもなく、今までに使ったことがない我儘を行使して、再び外へ。ラオスでの仕事をつかみ取りました。これも終わってみれば、大正解の選択。上述したすべての経験を中心に、私が持つ水道事業に関する技術、ノウハウを全てラオスに残すと決意して取り組んだ最後の仕事。この仕事、MaWaSUに関しては、その思いも含めて水道公論に載せていただくことになっているので、興味を持たれている方は、読んでいただければ幸いです。

今の思い~再飛翔へ~
最後に、仕事にも夢を持ち、どんな仕事でもどんな状況下でも、逃げることなく、あきらめることなく、最善を尽くし、夢を捨てないで、最後には笑えると信じて、日々を大切に過ごしていくことが大事だというのが今の思いです。
人生で初めてといってよい現在の大きな充電期間をしっかりと活かし、これからの活動を具体化していきます。そしてライフワークとした無収水管理、小規模水道の課題、国際協力の3つに関する活動に焦点あて、育てていただいたさいたま市民への恩返しという視点も忘れずに、本年の4月から第2の水道人人生をスタートさせ、「しっかりと、まだまだ歩んでいくぞ」、これが2018年の新年の誓いです。
When there is a will, there is a way, Yes, I can do it and I will try everything forever!!!

参考
1976 昭和51年4月(22) 埼玉県南水道企業団技術吏員に採用
1977 昭和52年4月(23) 配水課
1978 昭和53年4月(24) 計画課設計係
1979 昭和54年9月(25) 配水管整備課
1989 昭和63年4月(35) 大宮営業所
1991 平成03年4月(37) 計画課
1992 平成04年8月(38) JICA無償資金協力調査団ラオス(2週間)
1993 平成05年5月(39) JICA無償資金協力調査団ラオス(2週間)
1994 平成06年3月(40) JICA個別専門家ラオス(6か月)
1994 平成06年9月(40) 計画課に復職
1995 平成07年1月(41) 阪神淡路大震災
1995 平成07年4月(41) 建設課
1999 平成11年4月(45) 財団法人水道技術研究センター管路技術部主任研究員
2002 平成14年4月(48) さいたま市水道部施設課に復職
Route 21 Cupids他
2006 平成18年4月(52) さいたま市水道局給水部工務課長
2007 平成19年4月(53) さいたま市水道局業務部水道総務課副参事
2007 平成19年6月(53) ブラジル国無収水管理プロジェクトに着任
2010 平成22年6月(56) さいたま市水道局業務部水道総務課副参事帰任
2011 平成23年3月(57) 東日本大震災
2011 平成23年4月(57) さいたま市水道局業務部参事
2012 平成24年8月(58) ラオス国水道公社事業管理能力向上プロジェクト
2014 平成26年3月(59) さいたま市水道局を定年退職
2014 平成26年6月(59) Project MaWaSUに再赴任
2017 平成29年8月(64) Project MaWaSU終了/本帰国

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