奈良県明日香村の飛鳥寺は飛鳥時代、権勢を振るった豪族の蘇我馬子が建てた日本最古の本格的寺院として有名である。飛鳥寺と蘇我入鹿の首塚の間の小さな広場にある遺跡案内板を見たとき、西暦596年に創建された飛鳥寺の跡を発掘調査したときの写真が載っていて「寺の西門の西には塀があり、土管をつないだ上水道が埋まっていた」と説明があった。
また、案内板には「飛鳥寺の西には槻(つき、ケヤキの古名)の木の広場があった。中大兄皇子と中臣鎌足(のちの藤原鎌足)はここの蹴鞠の場で出会い、蘇我入鹿を暗殺し、645年に大化の改新をなし遂げた」とあった。蹴鞠や暗殺(乙巳(いっし)の変)の話は有名で知っていたが、そこがその重要な場所だったのかと再認識した次第であった。
仕事柄、土管に興味をそそられた。そんな昔に土管があったのか。なぜ上水道とわかるのか。土管なら下水道ではないのかと疑問が湧いた。インターネットで「飛鳥寺 土管」で検索するとかなり載っていた。
「飛鳥寺跡から1996年に日本最古と思われる土管が2種類出土した。縦半分に割って切り離したものが丸瓦である。それより以前には古墳で円筒埴輪が排水管に転用されていた例がある」。別のホームページには「川原寺(現・弘福寺)から直径50センチ、長さ1メートルの土管発掘。回廊の築地塀の下から出たので、寺の中の雨水等を外に出す排水管であろう」とあった。川原寺跡は飛鳥寺と約500メートルの距離。飛鳥寺は百済の技術者の指導でつくられたので、これらの土管は朝鮮半島からきた技術でつくられたものであろう。
飛鳥寺跡から出土した土管がどうして上水道管なのか、明日香村教育委員会(文化財課)を訪ねて聞いてみた。担当者は「土管の内径は10センチほどで、下水を流すと詰まりやすいので下水道管と考えにくく上水道管とした。土管は川原寺跡でも発掘されているが、それは口径が大きいので下水道管といえる。その後、飛鳥寺西門跡の北側、南側でも同じ土管が発掘され、これらは南北に一直線に並んでいるので、つながっている可能性がある」という。
また、明日香村の水落遺跡からは、同時代の660年に中大兄皇子(のちの天智天皇)が漏刻(水時計)をつくり、それに使われた銅製水道管が出土している。
大阪市水道局OBの水道史研究家(故人)の調べでは、古墳時代の木管の水道管が出土しており、これが日本最古の水道管といえそうが、木管、竹管の水道管ならもっと前から使われていただろうし、朽ちてしまったものもあるので、発掘されても日本最古の水道管と断定するのは難しそうだ。
土管水道管では飛鳥寺西門跡、土管下水道管では川原寺跡のものが最古ではなかろうか。ちなみに、海外の古い水道管ではイタリアのポンペイ遺跡の鉛製水道管、下水道管は古代ローマの「クロアカ・マキシマ」(最大の下水の意)が有名で、ローマは現在も利用されている。古代史はロマンが尽きない。