第7回 ダムと水道の歴史をさぐる

筆者:松下 眞

水道事業に長くかかわっていると先人の努力とその成果がいかにすばらしいものであったか、思い知ることがある。我々が管理運営している施設はどのような技術者が考えたのか?そのルーツはどこにあるか?これらを手繰っていくとどんどん遡っていくことになる。

神戸の場合、実施工事は吉村長策と佐野藤次郎によるが、基本計画はパーマー、バルトンによっており、特にバルトンによるところが大きい。

それでは、バルトンを生んだイギリスの水道工学はどのような状況にあったか?

イギリスでは、1848年にE. Chadwickが公衆衛生法を世に出し、その後大規模水道が誕生していく契機となった。ちょうどヴィクトリア女王の治政下でもあり、これに貢献した技術者はVictorian Water Engineerともいうべき人々であった。代表的な技術者としては、T. Hawksley, R. Rawlinson, J. F. Batemanらの名前があげられる。佐野藤次郎は神戸の布引・烏原・千苅の3ダムを設計したが、イギリス滞在時にVictorian Water Engineerの仕事をつぶさに見てきた可能性があり、Wales のVyrnwyダムやGlasgow水道拡張計画などは神戸水道計画に反映された形跡がある。注[1]参照

さらに産業革命以前はどうであったか?

ローマ人によるアクアダクト(水道橋)はフランス・スペインなど地中海世界の各地に遺跡として残されている。休みを利用してこれらの施設を訪ねているが、最近、もう少し時代を下って16世紀頃の古いダムを見るためにスペインへ行った。

スペインではセゴビアやタラゴナのローマ水道橋が有名であるが、その後、一度イスラム文化圏となり11世紀からレコンキスタ(国土回復運動)によりキリスト教徒が席捲していった。その際、モスクを改造してカテドラルにしたメスキータの例と同じように、キリスト教徒はイスラムの優れた灌漑施設をそのまま引き継ぎ発展させていった。今回見たダム(Almansa, Elche, Tibiの3か所)は、いずれも構造計算に基づかない、平面的なアーチ構造によって上流側の水圧に抵抗する構造であった。これらがイスラムの遺産かその後の技術か定かではないが、いずれにしても16世紀のダムである。その後、これらの技術が産業革命を経てどのように発展したのか、他のヨーロッパ諸国ではどうか、今後調べていきたいと考えている。なお、神戸の烏原ダムも平面アーチであるが、これはコンクリートの温度応力を考慮したものであり、水圧に対抗するためではない。

ローマのクラウディア水道橋、フランスのポンデュガール水道橋、スペインのセゴビア水道橋はいずれも紀元1世紀であり同時進行的に建設されたが、それだけの技術者がいたのか・・・という疑問が沸く。

アーチ水道橋やダムの建設技術が各地に伝搬していった事情を探るというテーマには、技術の継承が叫ばれる昨今、少ない技術者で水道施設の維持管理をしていくヒントが隠れているのかもしれない。

注[1] 松下 眞、「佐野藤次郎と初期の神戸水道計画におけるイギリスの影響」(土木史研究論文集 Vol.24 2005年4月、土木学会)

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