水道に携わる

筆者:笹山 太

1.水道人生のスタート
新しく幹事として、水を語る会に参加させて頂いております。佐世保市の笹山と申します。僭越ながら、「リレーエッセイ~水声~」へ投稿させていただきます。
高度経済成長末期、第二次ベビーブームの昭和47(1972)年に長崎県佐世保市に生まれ、今年で49才を迎えます。この昭和47年(1972)年は、札幌オリンピックの開催やアメリカから日本へ沖縄が返還され沖縄県の発足、日本列島改造論の発表や田中角栄内閣の発足する中、全国の水道普及率は約80%、佐世保市は86%を達成しており、経済成長率も9%台と拡張の時代となっています。
佐世保市水道局に入局し、はや30年を迎えますが、就職活動当時は、バブル絶頂期から経済も活発に上昇しており、その影響から様々な企業からの求人も多くどちらかと言えば、供給の方が多いかったような時代かと記憶しております。そのような中、市職員さらに水道といった選択肢は持ち合わせておらず、全く別の道を歩もうとしておりました。幸いにも、多くの人の進めから、佐世保市水道局に勤めるこことなりました。お恥ずかしい話、当然のごとく、水道の基本的な知識も持ち合わせておらず、「就職」したという程度の意識しかありませんでした。

2.平成6(1944)年の大渇水
日々勤務している中、今後の自分の転機となる事態が起きました。それは、平成6年の大渇水です。九州から関東地方と広範囲にわたって起きた渇水で、春先からの少雨に加え梅雨時期の降雨も平年の半分以下、更に7月から8月にかけて記録的な猛暑が続く異常気象となりました。佐世保市においても、この渇水により昭和53年給水制限から16年ぶりの給水制限に至っております。
その影響は、平成6(1994)年8月に始まり平成7(1995)年4月末までの264日間、市内全域の約13万世帯が、最小で一日給水時間が5時間という給水の制限を受けました。
当時担当した地域は、約1,500世帯、給水人口は約5,000人の規模でした。給水制限の方式はメーター部の止水栓を操作して時間給水を行っていました。時間に合わせ開閉操作を行う必要があり、約10名程度の市長局部の応援職員やアルバイト等で構成した、操作班で毎日開閉作業に当たっていました。市民の方は、その時間に合わせ一時帰宅したりして、水を確保されている方もあり、生活を維持していくため、多くの労力を費やされていました。
水道は使えて当たり前の時代で育ってきた自分にとって、この災害は大きなインパクトを与えられました。給水制限の当初は市民から渇水になったことや時間給水に至ったことにお叱り(苦情)も受けていましたが、渇水の日々が日続くにつれて、ごく短い時間でも水道が使えることに対して、感謝の声も聞こえるようになりました。
この経験にて、使えて当たり前の水道ではなく、使えてありがたい水道が本来の姿なんだと、強く認識させられました。

図1 平成6(1994)年 給水制限(時間給水)

図2 平成6(1994)年11月 山の田ダム(佐世保市)

3.佐世保市水道の歴史にふれて
佐世保市の水道の歴史をたどってみれば、佐世保市海軍鎮守府が開庁され、旧海軍水道によって始まり今日に及んでいます。市水道は、明治36(1903)年4月より旧海軍水道からの浄水の分譲を得て大八車に水桶を積み、人肩による一斗入一荷2銭の手数料を徴収して水売りを行い、市民の衛生的保全をつとめたのが始まりと記されています。水道が98%に達する普及する現代においては、想像のつかない悠長な給水手段であったと思われます。
しかし、その当時の諸情勢の中から、旧海軍の許可をとりつけるたけでも相当な厳しさがあったことに違いないとも思われます。
海軍鎮守府という背景から、佐世保市は加速度的に人口が膨張し、それに伴い伝染病が流行しました。旧海軍からの浄水の分譲から水売りは実現しているものの、市民の水生活は質的にも量的にも不安そのもので、水道の建設が市民の念願となっていました。しかし、膨大な建設資金を要する水道建設財源の確保が困難を極めていました。
その中で、市内で大火事が発生し57戸を焼失する事態が生じました。その頃の防火水利は井戸を汲み上げバケツリレーであったため、旧海軍当局へ保健衛生や防災の観点から水道施設の必要性を強調し、旧海軍水道から浄水を無償分譲することが叶い、水道認可や事業費起債認可を得て、明治40(1907)年に全国でも10番目の近代水道が佐世保市で始まり、今日に引き継がれています。

図3 明治36(1903)年大八車水売り(昭和31(1956)年港まつり余興)

図4 昭和初期の山の田浄水場

図5 明治に建設された緩速濾過池(現在は廃止)

図6 山の田浄水場第1濾過池濾砂倉庫(現在は廃止)

4.水道に携わる
歴史をみると、どのような経過と機会から創設されているかがほんの少しだが理解できた気がします。水道を創設するためや拡張させるため、先人たちの苦労も努力も図り知れないものがあったと想像できます。
当初はありがたい水道が、いつの間にか、当たり前の水道へ転換しているものの、いざ災害や事故となれば、水道の重要性や必要性が強調されています。一概に将来を見据えて、当時の問題や課題の解決に尽力し、水道事業を創設、発展させてくれた先人たちの努力があってこそと、感謝しております。
今の時代も、全国さらに世界を視野に将来の水道を見据えた研究や活動が行われています。その研究や活動の基盤を作った時代を「知る」ことから始め、「学ぶ」ことで、今後の将来を考えることも可能になるかと感じています。
水道に携わり30年たちました。今では、社会基盤を支える水道事業に携わることに誇りと責任をもっております。今後は、このありがたい水道を、次世代に引き継ぐことを目標に、自己研鑽を継続して行いたいと思います。
さらに、この水を語る会で水道を深く学びつつ、水道界のネットワークを構成する一員となれるよう、地域担当幹事としても、長崎県や九州などの水ネットワークの連携や、知識の醸成と情報の共有を図り、微力ながらも水を語れるように、努力して行きたいと思います。

皆様、今後ともよろしくお願いいたします。